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Coastal Defence of Bakumatsu Ibaraki

激動幕末ー開国の衝撃 国立公文書館デジタルコレクション

水戸藩では初代藩主頼房の時代(1619、1625-1630)から異国船に注意を払ってきた。寛永15年(1638)には水木村と磯原村(北茨城市)に藩士と足軽を詰めさせ、異国船を監視した。寛永21年8月には、水木、磯原、那珂湊の3か所に舟番を設け、水木には郡奉行の支配下に助川村野内讃岐(やないさぬき)を配置した。

外国船がこの地方の沖に現れるようになるのは19世紀に入ってからのことである。文化4(1807)年には鹿島沖に異国船が姿を見せ、日立地方では田中中村の郷士大内勘右衛門が指揮する石名坂、森山、金沢、大久保、諏訪の猟師20人が水木に動員される事態が起こった。

翌5年には川尻村と水木村に先手物頭(さきてものがしら)が組同心を率いて在番し、異国船を見張った。12年2月には「異国船を見かけた時は直ちに報告し、軍用掛り、筆談役、目付方下役など藩の役人が浜に詰めて交渉にあたること。敵対になっても船戦はせず、陸上で備え、できるだけ穏便に扱うこと」という指示が出た。

文政年間(1818-30)に入ると日立沖合にもしばしば異国船が現れ、漁民の中には魚を差し出して、その礼にコップに入った酒をもらうなどの物々交換をするものもいた。そのような中、文政7年5月28日(1824)政府の異国船打払令のきっかけとなる事件が起こった。大津浜(北茨城市)に外国船の船員12人が上陸したのである。イギリスの捕鯨船員で食料を求めていたことがわかり、6月10日食糧を与えられ、船に戻っていった。

このとき川尻沖に異国船が3隻現れた。小舟をおろし、波打ち際54メートルにまで近寄ってきて、遠眼鏡で様子をうかがっていた。しばらくして本船の合図で引き返し、南方へ走り去った。この様子を見ていた下土木内村の郷士黒沢彦兵衛は「こちらから手を出せば異国船から大砲で打ちかけられるところだった」と胸をなで下ろしている。(これは会沢 正志斎43歳の時の出来事である。)

新 郷土日立歴史、日立市教育委員会、志田諄一編、いばらき印刷、2007 (東海村立図書館 L213)、58ページ)

 

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