Talk about Japan

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Ono Tomogorō

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(1817-1898)

Ono (d. 1882) was a mathematician who also studied navigation. The chief navigator on the voyage of Japan’s first style warship to America (1860). He later served at the shogunate’s Western Literature Research Institute.

He was the chief navigator of Kanrinmaru.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%8F%8B%E4%BA%94%E9%83%8E

http://english.cheerup.jp/corpus/search?name=%E5%88%9D+%E5%92%8C%E7%AE%97+%E5%AE%B6+%E6%AF%9B%E5%88%A9+%E9%87%8D%E8%83%BD+%E5%B8%AB%E4%BA%8B

Legation of the United States in Japan

As We Saw Them: The First Japanese Embassy to the United States

Kanrin Maru Kōkaichō Ono Tomogorō no shōgai : bakumatsu Meiji no tekunokurāto

和算の歴史

http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%8F%8B%E4%BA%94%E9%83%8E

 

 小野友五郎(1817~1898)は、明治時代に大堀村(現富津市)で製塩事業を起こし た人物である。友五郎(諱・広胖[ひろとき])は、文化14年(1817)に笠間藩士小守宗次の三男として生まれた。同藩の小野柳五郎の養子となり家督を 継ぐ。弘化4年(1847)上総郷士赤井庄五郎の娘津多と結婚、嘉永5年(1852)、幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら江川太郎左衛門英龍に砲術や軍 学・オランダ語を学んだ。

安政2年(1855)8月、友五郎は測量・航海術の精通を買われ、老中阿部正弘からの直命によって、長崎に設置 された幕府の海軍伝習所に入学した。測量術の実践を16カ月学んだ後、江戸へ戻って築地の軍艦操練所教授方となる、万延元年(1860)、日米修好通商条 約批准書交換のための使節派遣が決定され、友五郎は艦長の勝海舟を補佐する航海長としてアメリカ合衆国へ渡った。文久元年(1861)軍艦頭取となり、異 国船防備のための江戸湾測量を行ったほか、咸臨丸の艦長として小笠原諸島の測量にも携わった。

維新後、友五郎は工部省に出仕、東京―横浜 間鉄道敷設に従事した。外国を見聞して、我が国の食塩が粗製で、衛生上改善の必要があることに着目し、自ら製塩を行って改良を企てた。明治2年 (1869)8月には東葛飾郡行徳村で、明治3年7月には市原郡松ヶ島村で試験を行い、確信を得て明治8年(1875)4月、大堀村における製塩場の開設 を千葉県に出願し、実行に取りかかった。

友五郎は、大堀村有地8,000坪を借り受け、独自の製法(蒸散屋を工夫、天日だけによらず製塩 する法)により、明治13年(1880)から3月から営業を開始した。その設備は、浪除堤防270間(約500m)、蒸散屋(長さ20間8棟)など1万円 余りの費用を要した。しかしその年10月3日の暴風雨によって施設は壊滅的な被害を受け、加えて明治14年1月には居宅類焼の災にあって、塩業は旧に回復 することができなかった。友五郎は一部修復した新塩場を義弟広誠とその子栄助父子に任せて、自らは大堀を去り、鉱山業などで働いたという。

そのような中にあっても、友五郎は塩業に対する熱意を失わず、広誠父子を通じて良質塩の製造に改良を加え、明治22年(1889)5月、農商務大臣井上馨 から15年間の特許を与えられた。また明治25年(1892)に、その食塩は水産品評会で大日本水産会頭載仁親王から優等賞を受けた。小野友五郎は、明治 31年(1898)、製塩改良に尽くした功績によって緑綬褒章を下賜された。同年6月29日に逝去、大堀明澄寺墓地に葬られたが、後に改葬された。戒名 「観月院殿塩翁広伴居士」。

【引用参考文献】

  • Wikipedia「小野友五郎」2013.5.14
  • 小沢平二郎「製塩業」『富津市史通史』1982.3第3章産業・経済の発達 第5節各種の産業 第2項

http://www.city.futtsu.lg.jp/0000002686.html

 

概要

勝海舟(燐太郎)、ジョン万次郎、小野友五郎、この三人の名前を日本人はどの程度知っているのだろう。
勝海舟は明治維新で西郷隆盛との交渉で江戸城(現皇居)を無血開城した立役者で誰もが知っている。
ジョン万次郎は土佐の漁民で十四歳の時台風で漂流し、アメリカの捕鯨船に助けられてアメリカに渡り、英語を覚えてアメリカの教育を受け、帰国のため二十四歳で琉球に渡り、琉球は当時薩摩藩の属領だったので薩摩に、そして土佐に帰郷した。
鎖国時代の日本には英語を知る者は皆無で、遠洋航海の船乗りでもあった彼のアメリカで得た知識は、開国を目指す幕府には貴重で、江戸に呼び出されて活躍したので、本も多く出されており、良く知られている。
しかし小野友五郎の名は殆ど知る人はいない。
この三人を結びつける咸臨丸は、日本人の手で最初にアメリカに渡った軍艦で、これも誰でも知っている。
咸臨丸の船長が勝海舟で、航海長が小野友五郎、航海助手兼通訳がジョン万次郎です。
徳川幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために派米使節を派遣したのは、安政七年(一八六〇年)のことで、外国奉行・新見豊前守正興を正使とする一行七十七名は、米国軍艦「ポーハタン」号で出港した。
これとは別に日本の軍艦咸臨丸を派遣して警護の任務に当らせると共に、オランダ支援の長崎海軍伝習所の収得技術を実地にためす計画が立てられた。
咸臨丸は派米使節団の随伴艦としての航海であった。
この咸臨丸にはアメリカ海軍士官ジョン・M・ブルックも部下と共に乗船し、荒天で日本人が働けない時、咸臨丸を見事に操った。
この航海での船長勝海舟はずっと船酔いで自室に閉じこもり、全くの無能振りをさらけ出した。
代わりに船長の役割を果たしたのは小野友五郎であった。
陸の見えない太平洋の大海原では船の位置を知るための航海術が重要で、これには高等数学の能力が不可欠であった。
彼は数学の秀才でその才能を見出され、咸臨丸の航海長に抜擢されるまでになっていた。
帰国後、勝燐太郎は左遷され、逆に友五郎は幕府の重職をまかされるようになっていった。
友五郎はその7年後米国船で幕府海軍の強化のため、軍艦買付に二度目の渡米の使節団長を仰せつかった。
その時福沢諭吉を通訳として連れて行ったが、彼の通訳は役に立たず、逆に洋書を買いあさり持ち帰った。
7章によれば、帰国後公金横領で告発したもののその直後に維新戦争が始まり、福沢はおとがめもなく、その書籍をすべて私物化して翻訳し、明治になって「西洋事情」などの出筆でベストセラー作家の著名人となり、今は一万円札の顔となっている。
鳥羽・伏見の維新戦争では、薩長軍が錦旗を掲げたことから、将軍徳川慶喜は自らの出陣前にあっけなく白旗をあげ、大阪から幕府船で江戸城に逃げ帰った。
そして慶喜は謹慎を示すため今までの多くの忠臣を更迭し、隠居中の大久保一翁と若い野心家の勝燐太郎の二人に幕府の権限をすべて委ねた。
勝燐太郎は自分を追いやった人間を憎んでいた。
友五郎もその一人で小伝馬町の牢に閉じ込められ、上野の彰義隊の戦いの銃声を牢中で聞いた。
明治政府になって釈放され海軍への出仕を求められたが、もう五十歳を超える年齢だったので断り、民部省の鉄道の仕事についた。
また友五郎は製塩事業に取組み、あるいは明治政府に多くの有用な提言を行った。
彼は幕末の徳川幕府でも明治政府にとっても有能なテクノクラート(技術官僚)であった。

以下小野友五郎の生涯を、1章を鳴海 風著「怒涛逆巻くも」からと、2-12章を藤井哲博著「小野友五郎の生涯」からの二つの本から12章にわけて示します。
明治維新の書籍は“勝てば官軍”のことわざ通り、薩長側からの視点で書かれたものが大半ですが、これは敗れた幕府側の視点で書かれています。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/ono.htm

量地図説. 巻之上,下 / 甲斐広永 編 ; 小野広胖 校 ; 葛飾為斎 画

http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/ono4.htm

 

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